地球生活

この物語はフィクションです。

2022.09.02 今日は何を食べようかな

 

高いマンションをふと見上げたとき、大きなトラックが走っているのを見たとき、死のうと思えば死ねる場所なんてそこらじゅうにあるなと安心する。

巻き込まれる人には申し訳ないが、死んだあとのことなんてどうでもいい。死んだあとに何を言われてもわたしにはもう聞こえない。
いつだって自分の意志で自分の人生をやめられるという確信は、お守りだ。


遺書を何枚も持っている。
誕生日に、家族や友達に祝われようやく実感することができる「この世に生まれ落とされた日」に、わたしがやることは、

遺書と、葬式で流してほしい曲のプレイリストを更新すること。

わたしにとって死は何十年も先にあるゴールテープの見えない未来じゃない。
いつだってわたしの後ろにある『今日は何を食べようかな』と同じ程度のありふれた選択肢だ。

そんなことを考えながら生きているからか、死にたいわけじゃないのにふとどこか遠くへ行きたくなる。
この静かな衝動がどこから湧き上がるのか、いつからあるのかわからない。
海でもいい、山でも川でも、通勤路から一本逸れただけの馴染みのない道でもいい。

意志と欲求を持って常に何かを考えてあるべき姿を目指して生きていると、つくづく人間は不自然な生き物だなと思う。いや、不自然なのはそれを自然に受け入れられないわたしだけかもしれない。

人間の皮をかぶってそれらしく生きている意識を脱ぎ去って、ただの自然の一部としてぼーっとそこに在りたい。
ただそこに植えられたから生えている道路沿いの樹のように、どこからか風に吹かれて転がっている死んだ猫に見えるビニール袋のように、人間の役割を脱ぎ捨ててただ今そこに在るだけの自然の一部でありたい。

 

さて、今日は豆腐を食べます。

 

おわり

2021.10.07 この流れのままで死ねたなら

 

 

兄が出張で数日家を空けている。こんなに静かな休日を過ごせたのはいつぶりだろうか。

わたしは他人の生活音が苦手で、部屋が明るいのも嫌い。自室は年中雨戸が閉めっぱなしで、自分が選んだ音以外は、足音もドアを乱暴に閉める音も、時計の秒針でさえもこの家から閉め出したいぐらいだ。

わたしの嫌いなありとあらゆる音を奏でる人間がいない。(むしろ兄が出す音すべてを"嫌いな音リスト"に上から順にぶちこんでいるだけかもしれない。)

たった2日間のひとり暮らし、それだけで遠足の前日に眠れなくなった子どものように心が舞い上がり、何をしようかあれこれ考えた挙句、結局友達に薦められた小説を明け方まで読んで、いつのまにか寝ていた。

昼には美容室を予約している。

地元のおばちゃんがひとりでやっているこじんまりとした店。シャンプーがとてつもなく上手い上に、程よくどうでもいい世間話。髪が傷んでるだのおすすめのトリートメントだの、余計なアドバイスを一切してこない適度に美容師らしい会話。完璧だ。

美容師に最も重要なスキルは、「不快なことを言わない、やらない」。

1時間ほどでカットを終え家に帰ると、軽くなった髪に指を通し、鼻歌まじりに母が買ってきてくれたパンをトースターで温めた。

いつもなら袋のままベッドの上で適当に流し込むが、髪を切ってご機嫌なわたしは、きちんとテーブルについて、お気に入りのグラスに水を入れた。

そして満腹になると心地よい眠気に襲われ、薄暗い部屋のベッドで、出かける前と同じ格好で寝ている猫の腹に顔を埋め、眠りについた。

昼寝から何時間経ったのか、外を見ると薄暗くなっていて、明日の仕事で使う服を干し忘れていたのを思い出して、洗濯機のスイッチを入れた。

待つ間、読み終えていなかった小説の続きをベッドに寝転がりながら読む。

そしてふと、「あれ、これもしかして今わたしは『最高の休日』をやっているのではないか?」と思った。

嫌なことが一切起きない、何もかもが自分に心地良いように流れていく。今この流れのままで死ねたなら、死後の供養など何もいらない。この世に何の未練もなく穏やかに成仏できるかもしれない、そんな大袈裟な気持ちにさせるほど、素晴らしい1日だった。

そしてこうしてこの最高の1日をここに書き記そうと思い立ったのだけれど、はたしてこんな何も起きない、平々凡々に幸せな、他人の日記。わたし以外の誰が読んで楽しいのだろう。

何かオチをつけようかとも思ったが、こんな最高な日の最後に、そんな面倒なことをするのはもったいない。

ただの人間の1日に毎回面白おかしいオチがつくと思ったら大間違いだ。

 

 

おわり

 

2021.09.18 哲学って何?こっちが聞きたいわ

 

 

「人はなぜ生きるのか」「愛とは」「善とは」「悪とは」「罪とは」

本気でずっとこういうことを考え続けてる人生なんだけど、飲みの席とかで仲良くなった人にポロッと

「愛って具体的に何をすることなのか〜」とか、「じゃあこの世に普遍的な善悪が存在するのか〜」とか言うと「哲学的だね(笑)」って一歩引かれる。

元彼と喧嘩したとき、「じゃああなたにとって人を愛するってどういうこと?」と言うと、

「なんですぐ飛躍するの?そんな根本的なこと答えなんかすぐ言えないよ!それよりもっと現実的な話しようよ、建設的なさぁ、」と言われる。

根本的ってわかってるならその答えを見つけられたら人生のすべてに応用がきくってことじゃん。もっと本質を見ようよ、目の前の小さなことだけじゃなくてさ。

ずっとそう思っていた。

自分を哲学的だと思ったことがない。哲学って一体なんなわけ?

もちろん偉大なる哲学の先人に学ぼうとした。

哲学書難しく書きすぎ。まず明朝体読みにくすぎ。注釈多すぎ。出てくる熟語の意味がゲシュタルト崩壊。「概念 意味」「実践的法則 意味」「道徳形而上 意味」あれ、1時間経ったのにまだ3ページ?挫折。

早々と先人に学ぶのは諦めて、ひたすら自問自答。自分の人生にしか興味がないので超実践的じゃないと興味が続かない。日常生活における自分の心理状態を観察、推論、仮説、実験、考察。普通に病んだ。実験段階で大体詰む。目を閉じると目の前の現実がちゃんと実存する世界なのか信じられなくなって眠れなくなった。

それでも考えることをやめられない。逆にみんな「なぜ自分は生きるのか」を考えずに、答えを見つけないまま普通に生きていけるの?モヤモヤしない?もうちょっとでわかりそうななぞなぞの答えを考えてる時に「早くご飯食べなさい!」とか急かされても、ご飯の味わかんなくない?

「幸せになるため」「夢を叶えるため」

じゃあなんで幸せにならないといけないの?夢って絶対持ってなきゃいけない?

こんな問答をひとり頭の中で10数年。

もうひとりでやるの飽きたわ。

 

 

 

ダンサーインザダークを観た。【ネタバレ感想】

 

言わずと知れたトラウマ級鬱映画と名高いダンサーインザダークをHuluで観ました。

https://www.hulu.jp/dancer-in-the-dark

 

めちゃめちゃネタバレあるので注意。

 

 


「鬱 胸糞 映画」と調べると賛否両論の不穏な感想とともに上位に出てくるので、「よーし今日は思いっきり悲しい気持ちになるぞ!」と意気込んで観た。でも思っていたよりしんどくはなかった。

胸糞だけを残した本当に救いのないラストにするなら、死刑の前にジーンの目の手術が失敗したことを聞いてしまう、もしくはその金をキャシーかジェフが持ち逃げして、結局ジーンはただ母親が冷酷な強盗殺人犯で、その息子として生きていかなければならず、さらに目も見えなくなり絶望して自殺、ぐらいの描写を入れてくるかなと思った。さすがにここまで行くとこの映画を何のために作ったのかわからないレベルなので、わたしの胸糞の妄想で終わってよかった。

 

人間は「生きがい」がないと生きていけないので、誰でも何かしらにその意味を見出そうとするものだけど、セルマにとってはいずれ目が見えなくなるという大きすぎる障害を抱えて生きていくためには、遺伝することが分かっていても産むしかなかった。ジーンがいなければセルマは生きてこれなかった。

セルマは自分のためにジーンを産み、自分のために手術費用を貯め、自分のために弁護士費用と引き換えにジーンに手術を受けさせた。ただ純粋な母から息子への愛だけじゃないと思う。

 

最後のキャシーの言葉だけではジーンの目が治ったのかはわからないけど、だからこそ、観客はこれをただの鬱映画じゃなく、少しの救いを見つけて映画を観終えることができる。想像や空想というのは救いだ。無限で自由だから。

苦しい現実の中で空想に落ちるミュージカルシーンも、あれがないとあまりにもセルマの生活には救いがなさすぎるから。セルマは母親がいることより目が見えることを優先したが、その後のジーンが幸せなのか、セルマがしたことがジーンにとっての正解だったのか、それは観客の想像の中で無限に、永遠に続いていく。

セルマが言っていた「最後から2曲目が終わったら映画館を出る、そしたら映画は永遠に続く」、それを文字通りに体感した。

 

「病気じゃなければ、もっとお金があれば、ビルとの約束なんか気にせず本当のことを裁判で話していれば」、そんなことを嘆いても何の意味もないが、正直1番最悪なのは自分は被害者だと何にも知らずにただ泣いているリンダ。すべての歯車が狂った元凶はおめーだ。(いろんな人の映画の感想を読むと、それぞれどんな理由で誰に1番腹が立つかが全然違って面白かった。)

でもセルマはそれがリンダを苦しめるとわかっていたから「ビルの秘密」を守った。死んだ人間との、しかも自分を裏切った人間との約束なんて守る義理などないし、死にたくないのなら全部話せばよかった。でも彼女はそうしなかった。それは彼女が純粋で、人を信じすぎて、愚かだったからではない。

 

登場人物が全員「自分のしたいようにしている」ように見えたからわたしはそこまで辛いと感じなかったのかもしれない。セルマ含めて全員自分勝手。その点でそこまで後味の悪さを感じなかった。

大抵「不幸でかわいそうな人」を描こうとすると、その不幸を受け入れられずに抗ってどうにか「幸せになろうとする」物語になりがちだけど、セルマは自分の境遇も環境も、ちゃんと心のどこかで受け入れているように見えたのがとてもよかった。不幸を嘆く物語にはもう飽き飽きしていた。

むしろすべてがクリアで全員幸せハッピーエンドなんて、それこそ空想でファンタジーで、「人間はみんな幸せでいなれけばならない」っていう無言の圧力を感じてしまってつまらない。こんな不幸は現実のどこにでも落ちているし、たまには隣の芝生が枯れているのを覗いてみるのもいいかもしれない。 

それぞれの人生の役割を受け入れてやり切っている感がして、観る人の立場によって感情移入できたり全然理解できなくて腹が立ったり、映画を観てここまで感情を揺さぶられるのが久しぶりで良い作品だった。

多分初めて観るタイミングによって、観る側のメンタル面によって大きく評価が別れる作品なんだろうなと思う。今のわたしには出会うべくしてこのタイミングで出会ったな、という素晴らしい縁でした。

 

 

おわり

 

2021.07.23 馴染めなかった学校行事

 

 

昔からそうだった。

学芸会、音楽発表会、運動会、体育祭、文化祭、

周りが盛り上がれば盛り上がるほど、反比例してわたしの気持ちはどんどん下がっていった。

そのときは理由がわからなかった。なんだかわからないけど、面白くなかった。

周りの友達と一緒にはしゃげばきっと楽しいのはわかっていた。学生時代には何度も経験する学校行事。もちろんみんなと一緒に、なんなら人一倍張り切って、"一生懸命、力を合わせて頑張って"最後には泣いたこともある。

そのときには「よかった、今回は上手くできた」と思っていた。

 

サプライズも苦手だ。リアクションに困るから。

「これはわたしを喜ばせようとサプライズをしてくれているな」と勘づいてしまった瞬間から、頭の中ではものすごい速さでリアクションのシミュレーションが始まる。

「どんなセリフを言えばいいんだろう」「全然気づいてなかった風にしたほうがいいのかな」「いつもより大きめに声出した方が」

すべてがプレッシャーになってのしかかる。

このシミュレーションの一瞬で、本当に自分が嬉しいのかどうかを感じる間も無く、感情が理性に上書きされてしまう。

周りの感情についていけずに自分だけが置いていかれる感覚が苦手なのだ。

 

 

みんなが喜んでいる。みんなが憤りを感じている。

純粋に楽しむことも出来ず、怒ることも出来ない。

また、わたしだけ置いていかれる。

 

 

おわり

2021.07.19 人間は楽しかったことを忘れる。

 

 

中学生のころ、わたしは「いじめ」の被害者で、加害者だった。

 

登校も休み時間も放課後も休日も、ずっと一緒にいる友達数人。いつも通りくだらないことを話して笑っていた。

そのうちのひとりが席を外すと、リーダー格の女子が談笑と変わらないテンションで「あいつキモくね?(笑)」と笑いながら言う。一瞬、空気が止まる。その瞬間、察する。

「みんなで無視しよう、逆らったら次はお前な」

そんなことは言わない。休み時間になると自然に集まるいつもの友達。「しばらくはコイツ」というターゲットが出来ると、その子以外を誘ってトイレに行く。

最初は「誘われなかったのは勘違いかな?」と思い、ついていく。でもどこかいつもと違う。話しかけても誰とも目が合わない、誰もわたしに話を振らない、誰もわたしの名前を呼ばない。

不安な気持ちは徐々に確信に変わる。

「ああ、次はわたしか」

飽きれば終わる。わたし以外の誰かが「キモい」と思われれば終わる。そう思って、ただ耐える。引き攣った笑顔で、ひとりでも平気な顔をして、親にも教師にも「いじめられている」なんて言わない。

だってわたしは「いじめられてなんかない」

 

こうやって耐えていると、ある日突然、透明人間だったわたしは急にみんなの目に見えるようになる。

「ごめんね」

そんな言葉はない。だって「いじめてない」から。

そういう空気感。「ハブってない」「いじめてない」「たまたま最近一緒にいないだけ」

そうやって、空気を読むのが上手くなっていく。

 

でもあれは「いじめ」だった。

傷ついた顔を見て笑っていた。空気を読んで、周りに合わせた。最初は自分を守るためだった。自分がターゲットになりたくないから合わせていた。罪悪感もあった。

でもわたしも一緒に笑っていた。無視した。物を隠した、壊した。

飽きればまた次のターゲットが決まる。

全員が加害者で、被害者だった。

 

 

人間は、楽しかったことを忘れる。楽しかったことは心に何も引っかからないまま、記憶として切り出される。普段は忘れている。たまに懐かしんでは、「楽しかった思い出」にして、過去に置いていく。

でも、苦しかったことは忘れない。何年経っても鮮明に思い出す。苦しみはまだ続いている。辛い過去は思い出に切り離されず、現在まで地続きだ。

 

人間を過去に縛り付けるのはいつだって「苦しみ」だ。

さっさと思い出にして「今」を生きている人間が、自分が過去にしたことでいまだに苦しみ続けている人間がいるなんて想像もつかない。

わたしもそうかもしれない。あなたもそうかもしれない。

わたしの「思い出」の中に、今でも苦しみ続けている人間が存在しているかもしれない。

人間は良くも悪くも変化する生き物だけど、過去の自分も紛れもない「わたし」だ。

あのとき置き去りにした思い出に、向き合う時が来たのだ。

 

 

おわり

 

2021.07.15 何が爽やかな朝だ、燃やすぞ

 

 

この世で1番嫌いな人間は

ポイ捨てするやつと、タバコの吸い殻をペットボトルとか空き缶に溜めるやつ。

 

わたしが狂った閻魔なら「ハイ阿鼻〜、まずは2000年かけて地獄の最下層に落下し続けてくださいネッ!!!!!!!!!ハイ次の方〜」って秒で裁判終わらせたいぐらい無理。

メンタルもこの世も地獄地獄〜!今日も元気に逝ってらっしゃ〜い!!!!

 

おわり